2025/12/1 渡邊詢也「ちょっとの差」
こんにちは。亜貴斗から引き継ぎました短距離4年の渡邊詢也です。
初めに福田監督、紫聖会の皆様、日頃から陸上競技部を支えていただいている皆様に心より感謝申し上げます。
亜貴斗は短短で共に練習することが多く、試合では3週連続で同じ組で走ったこともあり、学年を超えて切磋琢磨した仲間だと思っています。サイコパスだと紹介されていますが周りからそう見えるのでしょうか、自他ともに認めるお子様なだけなのでよくわかりません。詢也の「詢」が殉職の「殉」に誤字られた事件も懐かしいですね。とても傷つきました。彼は今シーズン怪我で不調気味でしたが、昨年同じ組で11.00を出された身としては来シーズン絶対に10秒台を出してもらいたいです。がんばってね。
3年次に部員日誌が開始され、これまで一度も書いていないことはどこかの界隈で有名らしいですが、決して忘れられていたわけではないです。これまでの部員日誌で前半後半なら間違いなく前半で指名がありましたが、1週間に渡る体調不良中で後回しにしてもらっただけなので別に忘れられてないです。

4年 渡邊詢也 短距離パート
さて、そんな私なので軽く自己紹介をさせていただきます。短距離パート、栃木県立宇都宮北高校出身、経済学科、ISFJ、隠れベイビー、誕生日は木村拓哉と同じ11月13日で先日22歳になりました。11月頭に引退したこともあり、22歳になった途端急激に体の衰えを感じています。サイコパスなりお子様なり言われますが、超人見知りするのでそういう面を見れている人はかなり親密度が高いです。良かったですね。あと書くとすればすぐ荷物を散らかすし、すぐいじけるくらいでしょうか。
短距離で4年11月まで続けたのはかなり長い期間競技に向き合ったのではないでしょうか。ここからは長いようで短い私の陸上人生を振り返っていきます。私は高校から陸上を始めました。中学までは計10年間スイミングスクールに通い水泳部に所属していました。当時15歳で人生のほとんどとも言える10年も続けた水泳を辞めるのはかなり悩みましたが、進学した高校に水泳部がなかったので転向せざるを得なかったです。ただ水泳部のある高校に進学しても陸上に転向していたと思います。距離を問わず走ることが好きで、中学卒業直前には陸上部の親友と一緒に走ったりもしていました。その中で高校から陸上を始めることを勧められ、高校入学前に陸上部に入ると決めていました。しかし一番の要因は兄の存在です。入部まで陸上に接点が無かったわけではなく、兄の試合をよく見に行っていました。それも家の近くの競技場だけでなく関東、全国と参戦しました。今まで一部の人にしか自分の口からは話していませんが、兄は4×100mRで全中優勝しています。気になる方はYouTubeで2014香川全中と調べてみてください。青のユニフォーム陽東中の1走で顔がよく似ております。水泳も高校も兄の後を追い、陸上で結果を出されては陸上を始めるのは必然でした。そんな輝かしい陸上の側面ばかり見ていたので、自分の陸上人生もそうなるものと思っていました。
高校大学と競技を続け、個人での実績はゼロ、高校ではチームメイトに恵まれリレーで関東大会に2度進めました。北関東では同じ組に弊部の宮﨑西田のライバルコンビ、塩味澤田の仲良しコンビ擁する立教新座高校がおり、レベルの差を直接味わいました。当時立教に進学できる頭は無かったので、同じグラウンドで練習することになるとは思ってもいませんでした。私のデビュー戦は高1で100m13秒台だったと思います。多分部で一番遅かったです。たまたま高校にコーチがおり、今でもお世話になっている方の指導で練習漬けの日々を送りなんとか11.44という記録が出せました。平凡な記録ですが当時は滅茶苦茶嬉しかったです。コーチがよく使っていた言葉がタイトルにもなっている「ちょっとの差」です。ほんの少し傾きを変えたり意識を少し変えるだけで一気に走りが良くなることが多く、今でも走りが安定しない私は何度も言われ続けました。記録が出ない時でもちょっとの差で何かが変わることを知っているので、努力の方向性が間違っていないと自信を持てる素晴らしい教えです。
大学では周りがみんな自分より速く、再び最下位スタート。それも2年までの記録は高校時代に全く及ばず12秒台で走っていました。別にサボっていたわけでもないのになぜこんなに遅かったんでしょうか。3年春に同期の渡邊快元パートチーフにスパイクを変えるようアドバイスを頂き、それが噛み合いまくりそのシーズンで11.14まで成長しました。一般的に考えたら訳のわからないシーズンですね。
そしてラストシーズン。目標にしていた10秒台、栃木県選1部出場に向けて冬季練習もかなり頑張りましたが結論ファーストで話すとどちらも叶わず引退となりました。今シーズンは県選1部出場が最大の目標でした。そのためには10秒9台前半は必須で、6月末のエントリー締切まで試合詰めでした。しかし怪我と11.2台連発により出場は叶いませんでした。最大の目標を失い、7月からは完全にモチベーションが低下していましたが、県選2日後の明立戦で11.04という私にとっては輝かしい記録がポンと出て驚きました。あまり覚えていませんがちょっと試してみるかのノリで走りを組み立てたら上手くいったので本当にちょっとの差だなと思いました。後半シーズンは風に恵まれず残念ながら記録更新はありませんでした。追い風2.0mなら10.99という記録を出した次の組で誰かさんにそれを出され、陸上人生の中でも1番を争うレベルで悔しかったです。またしてもちょっとの差を感じました。
総括すると自分の建てた目標は何一つ達成できずに終わったものの、プラスなことばかりの陸上人生でした。フレキャンのトレーナーや同立戦での100+400+200+4×200mRなど、ここでは語りきれない思い出が数多くありとても楽しかったです。生まれ変わっても陸上を選ぶと思いますし、今度は中学から陸上を始めてみようと思います。

(写真2列目左:伊藤)
次の部員日誌ですが、記憶の限りではジュンジェーの名付け親である伊藤慎太郎にお願いしました。なぜジュンジェーになったのか自分も含め知らない人が多いので解説してください。伊藤はキラキラした陸上をしていたはずですが謎に肩の靭帯をやったりして今年はほぼお休みしていました。同立戦走り高跳びで眠り姫マフチフの真似をしていたのが今年のハイライトです。もう1年ある彼に本当のラストシーズンに向けて自由に語ってもらおうと思います。冬季練サボるなよ!
最後まで読んでいただきありがとうございました。
次回もお楽しみに!!
