2024/06/21 伊藤慎太郎 「星になりゆく人」

3年 伊藤慎太郎 短距離ブロック 主務 写真 左から2番目

お世話になっております。
立教大学体育会陸上競技部主務の伊藤慎太郎です。(メールをよく書く関係で「お」の予測変換でここまで出てきます)

聡真から指名をいただき、ついに僕の番が来てしまいました。聡真は選手としても、また副務補佐としてもとても優秀で頼もしい存在です。二十歳になられたと言う事で、お酒はほどほど嗜む程度でね。

先述したように私は主務を務めております。
どんなことをしているのかというと、基本的には関東学連をはじめ、埼玉県陸協など、競技会を運営するためにお世話になる組織とメール上での打ち合わせ(たまに現地まで行く)や、補助員の派遣対応、またそれに伴って会計とのやりとりなど多岐にわたります。今週だけでも7月7日に行われる明立戦に向けて、審判委嘱状の用意、審判の方の入構許可の取得、審判講習生の部署分け、タイムテーブル作成までやり遂げました。主務激務です。

絶対にバイトをしてる暇なんてものはないので(僕は大宮でビアガーデンのアルバイトをしてますが)、主務になる際は心と体の健康のためにバイトを辞めることを強くお勧めいたします。

さて、この部員日記のコーナーはどんなことについて、どんな量を書いてもいいでらしいので、私の好きなバンドの話。SUPER BEAVERの話、特に「まだまだやり残したことがあるから、まだまだ死ねないんだ」というテーマの「星になりゆく人」という曲について紹介をしたいのですが、せっかくなので私の陸上人生を振り返り、紹介させていただきたいと思います。六大の注目選手紹介の際に伊藤のテーマ曲にするくらいには好きな曲なので、全人類いますぐ聴いてください。

最近就活というものが始まり、自分とは何者かを400字程度に詰め込まなくてはならないのですが、決して400字には詰め込めきれない人生です。この機会に長々と赤裸々に書き連ねていきたいと思います。よろしければ少しずつでも、ポップコーン片手でも最後まで読んでいただければ幸いです。

私の専門種目はハードルです。
私にはハードルしかありません。
正確にはハードルしか残されていないのです。

私の100mの自己ベストは11”6と、そこらへんの中学3年生男子と変わらないタイムです。
しかしハードルがあれば、あら不思議、関東大会入賞選手になります。
誰よりも足が遅いから、誰よりもハードリング技術にこだわる。それだけでここまでやってきました。

今でこそハードルは日本人が世界の頂点に最も迫るスプリント種目であることは誰の目にも疑いようがありません。しかし当時は今ほど競技人口も多くなく、足の遅い選手の逃げ道のような存在であったように思います。少なくとも僕にとってはそうでした。

埼玉の田舎の中学校で100m対抗選手を外れたその日から、試合に出るために残された道はハードルしかありませんでした。
ハードルを専門的に教えられる先生がたまたま公立の中学校にいるわけもなく、なあなあに練習していました。
ところが中学2年の夏。ある縁から、ハードル種目で何名も全中に入場させた実績がある恩師に出会うことができたのです。
その先生に教わるために毎週末には決まって千葉まで通い、ハードルの基礎をみっちり叩き込んでもらいました。その結果2ヶ月後の新人戦では初めて県大会の決勝に残りました。そして0″01秒差の劇的な県大会優勝を収めました。
誰にも負けないで大会が終わる。
自分以外が全員悔しがってる。
ぶわぁぁぁあって湧き上がってくるような、
その時の昂ぶりを忘れたことはありません。
ハイキューでいうなら、月島がウシワカ止めた瞬間みたいなもんです。

その日から僕の人生は大きく動き始めました。
TEAM埼玉の一員として県の強化練習や関東合宿などに参加させていただき、陸上の世界が大きく広がりました。
その後もなんやかんや週7日間練習し続け千葉関東(9位)・岡山全中(予選落ち)・ジュニアオリンピック(予選落ち)に出場することができました。

そして勢いそのままに県内随一のハードル強豪校に入学しました。僕の所属していた男子陸上競技部(女子陸上競技部は組織からして別物)は毎年ハードルブロックに12人所属するほどの大所帯でした。毎日質の高い対人練習ができる環境でハードルに打ち込みました。
その結果、大阪室内(予選落ち)・関東新人(12位)など、そこそこの大会に出場することはできたものの、いまいちパッとした結果は残せませんでした。もともと週7日必死に練習してようやく全国大会に出場できた程度の実力なのだから、もっと陸上に必死にならなければならない。やってるはずなのに、それなのに結果は伴ってこない。ずっと苦しかった。今振り返れば、もっと上手く色々やれていたんじゃないかと思いますが、当時の私にとっては陸上だけで限界でした。

最後のインターハイ路線。県大会決勝では0”01秒の差で北関東大会に進出が決まりました。仲良し同期5人組の中で1名だけ北関東大会に出場できませんでした。その選手を囲んで、「頑張ってくるからな」とみんなで泣いた記憶があります。その後、みんな大好き等々力で行われた北関東大会。準決勝7レーン。4着+0で取った順位は5位。全体9位。決勝にすら残れませんでした。やはり技術だけでは実力差は埋められませんでした。

精一杯やってたつもりだったけど、もっとまじめに練習しとけば未来は変わっていたかもな。もう一回やり直したい。時間よ戻れ。非現実的な何かが起こるのを本気で期待してしまうくらい、信じたくない揺るがない現実がそこにありました。トボトボと陣地に戻る途中、私と0”01秒で北関東大会に出場できなかった親しき選手が目に入り、泣き崩れました。

しかし高校生伊藤の戦いはここから始まりました。そうです。大学受験です。
元々高校1年次から立教の「観光学部」に興味があったので無論第一志望は立教でした。

どうやら調べてみると陸上競技部があり、入部標準もなければ、男女ともハードルで実績がある先輩が在籍しているらしい。
しかし自分はインターハイに出られなかった。高校で通用しないレベルだから、大学で競技を続けるなんてもってのほかだ。と思いつつ、立教のアス選を受験しました。もちろん落ちました。もちろん。といいつつ、落ちた時のことは何も考えていなかったので、勉強なんてしていませんでした。とはいえ、私は未練がましいというか、諦めが悪い人間なので、チャンスがあるならそれに向けて全力で頑張ります。

高校3年の10月の時点での偏差値は文系3科目で36.2。一般受験まで残り4ヶ月弱。やることは決まってます。「付け焼き刃大作戦」。とはいえ、3年間勉強してきた人と偏差値36.2の伊藤では差があります。どうやって埋めるか。倍勉強するしかない。1日12時間勉強しました。

立教の受験は3科目。特徴は英語の試験が英検等の資格で代替され、個別試験がないこと。
つまりもう入試は始まっていたのです。
そのため11月を全て英語に捧げ、立教の入試で戦える程度のスコアを取りました。
そこから2月までは午前中は国語。午後は世界史と分けて勉強しました。
立教の世界史は過去問を使い回す傾向があると情報を得たので、赤本を20年分購入しました。そして頻出問題を徹底的にまとめました。私の記憶してる限りではヴィルヘルム4世とリリウオカラニが4回出てきました。(しかも受験本番にも出ました。)

結果、無事立教大学に合格しました。

高校の顧問の先生に大学受かりました。と報告したところ、その場で弊部の福田監督に電話を一本入れられました。そのとき私の携帯に知らない番号から着信がありました。

「入部希望ってことでいいんだよね」

当時のパートチーフからでした。「?」おい、入部するなんて一言も言ってないぞ。とも思いましたが、これも何かの縁だと思い(というか目の前にいる顧問の圧を受けて、半ば強制的に)立教大学陸上競技部に所属することになりました。20歳までで関東入賞できなかったら今度こそ辞める。強く心に誓いました。

入学式の2日後、東京六大戦に対校選手として出場する機会をいただきました。同じ組に世界陸上出場選手がおり、早速大学陸上の洗礼を浴びました。受験があり半年運動出来ていませんでしたし、ストレス発散は暴飲暴食という手段しかありませんでしたので、8kg「大きくなっていた」ため、本当にボコボコにされました。

大学1年次は夏頃まで調子が戻らず苦しい日々が続きましたが、ハードリングの技術だけではなく、スプリント強化のためにフィジカルや栄養面など総合的にアプローチすることにしました。先述した先輩方と相互に動画を撮り、助言を行ったり、学科の授業を通じて学んだ栄養学や解剖学の知識を落とし込んで実践したり、PRO BRIGHTという寺田明日香選手がプロデュースするパーソナルトレーニングジムでムーブメントトレーニングを取り入れたりと、新たな視点を取り入れました。

結果2年次では関東インカレで2位入賞。
陸上競技生活、初めての関東大会入賞まで8年。
人生初めての表彰台。しかもお世話になった先輩との立教大学1,2フィニッシュ。ようやく今までの全てが報われた気がしました。
トラック&フィールド版の箱根駅伝として位置付けられているトワイライト・ゲームスという大会にも招待をいただき、出場できました。
(その後、関東選手権の舞台で再び等々力に戻り、準決勝に進出するも、またしても7レーンを引き、過呼吸になり準決落ちするのはまた別の話。)

ここまでで終われば小説的な綺麗な結末であったかもしれませんが、残念ながらそうではありません。
今までの陸上競技生活の軸であった「関東大会入賞」という目標を達成してしまい、目標を失ったことでバーンアウトしてしました。
20歳で関東大会入賞してしまったことで辞め時を完全に見失いました。

現在(3年次)では高校時代の自己ベストを上回る記録を一度も出すことができていません。しかし前を向かなくてはなりません。

私の同期短距離パートには大学から陸上を始めて誰よりも早く10秒台を出しそうな新星もいますが、大部分は「昔速かった人たち」です。岡山全中に出場した。インターハイに出た。だけど、大学で実績を上げた人はいません。
自分のことではないから憶測でしかありませんが、みんな昔と今のギャップに悩みながらも、「あの」勝つ快感を忘れられないのではないかと思います。
似たような「昔は速かった人たち」だからこそ、私も頑張ろうと思えています。

また同じ県内の同期ハードラーの存在も非常に大きいです。
一人は全国大会優勝、一人は大学に入って初めて全国大会に出場していきなり準決勝進出。一人は3種目で関東インカレ入賞が狙える選手。一人は唯一中学時代に県チャンピオンの座を取られた選手。
彼らの活躍は自分のことのように嬉しいですし、同時に絶対に負けたくないと思わせてくれて、何度も私を正しい方向に努力させてくれます。

「もう一度全国大会に出たい」
今はただそれだけです。
昨年は地元埼玉で開催された全国大会には0”16秒届きませんでした。人生最後の地元開催の全国大会であったかもしれないのに出場できなかったことが悔しくて仕方ありませんでした。
しかし今年の全日本インカレは因縁の等々力で開催されます。二度と行くまいと決めた因縁の等々力です。
僕にとってはダークツーリズムです。
嫌いな嫌いな等々力に行きたくて仕方ありません。
高校生3年の夏、果てるまで泣いた等々力の地に、
今度こそ誰よりも笑って立ってやろうと思います。

私は大学卒業と共に陸上競技を引退すると決めています。だからこそ、残りの1年半、死に物狂いで全国大会に出場するために努力したいと思います。経験上、1年半なんて一瞬です。やり残したことが大きすぎてまだまだ星にはなれません。

さて、僕はもう書き尽くしました。次回の部員日誌ですが、中学時代の自己ベストを更新できていない、でも誰よりもひたむきに陸上に取り組む簗瀬結斗に託します。彼も「昔は速かった」1人です。モチベーションなど、知りたいことがたくさんあるので、彼にお願いします。

最後に、
陸上は個人スポーツであり、チームスポーツでもあると思います。立教はさまざまなレベルの選手が所属しており、共通の目標を立てることが非常に難しいチームです。しかし主務として、「互いの活躍に刺激を受けて与えて、成長していくチーム」にしたいと思います。

一緒に頑張ろうはなんか違うとちょっと思っている。
親愛あるあなたへ。
心を込めて。
頑張れ。

ってSUPER BEAVERが言ってました。